日々の覚え書き~観劇、本、その他彩りのあるもの~

アラサー女の生きる糧。生きてるって楽しい!と思えた物事の個人的な記録。

ジェンダーと脳

ジェンダーと脳 性別を超える脳の多様性  ダフナ・ジョエル&ルバ・ヴィハンスキ

 

男性と女性、性別としての違いはあれど、脳は「男脳」「女脳」が存在するのか。

という問い。

 

以前より「〇〇な男、△△な女」といったタイトルは良く見られており、思考回路の違いや、行動の違いなどが言及されてきた。

男性は野心をもち、競争に常に身を置く。他者に対して攻撃的な面を持つ。

対して女性は協調的であり、親切で、共感が強い生き物である。

男性は理論的であり、女性は感情的である。

 

たしかに当てはまる人もいるけれど、当てはまらない人もいる。

最近は理系分野で活躍する女性も増えてきている。

彼女たちを「例外」ととらえるのか、「彼女たちのように活躍できうるひとが、今まで埋没させられてきていた」ととらえるのか。

 

この本では「男性的」「女性的」とされる心理的特徴や、灰白質の大きさなどを比較したときに「男性的な特徴は男性に多い」ながらも、「すべてが男性的特徴をもつ人はほとんどいない」としている。

男性にも心理的に女性的といわれる面は存在し、その逆もしかり。それは、「悪いこと」としてとらえられるべきなのか。

 

私は今日、ある記事をみた。

性暴力を受けた女性の、裁判所でのスピーチだ。本当に説得力がある内容だったと思う。

加害者である男性はおそらく、この女性を「被支配者」であり「力を持たないもの」であると判断し、犯行に及んだんだろう。

だがスピーチ内容にもあるように、彼女には「知識」「周囲のサポート環境」「強い精神力」など、とても恵まれた「力」を持っていた。だから、このように話題にもなり、重い求刑となったのだろう。

 

このようなジェンダーバイアスは自分でも気づかずに持っているものである。

私自身、最近になってようやく、そのことに自覚し始め、自分が感じてきた違和感などが言語化できるようになってきた。

 

この本のなかで、印象に残っている部分がある。

「なぜ、トランスジェンダーであることを宣言するのか」という学生からの問いに「ではなぜあなたは、化粧をして体のラインが出るような服を着るのか」と返答した著者。

 

化粧をすることと、体のラインを強調することは「私の性自認は女性です」とアウトプットしていると同じだと。

それを読んではっとした。

 

私は、女性だと高らかに宣言できるほど「女性」ではないんだ、と。

だから私は婚活や合コン、デートなど、「異性と意識するべき人と会う」時には化粧をし、「女性らしい」服を着ていく、

しかし、普段はパンツが中心だし、体のラインは基本的に隠している。

だって、友人とのつきあいや、仕事のときに「女性」である必要はないから。

 

そうだったのか。私は「女性」であることは、あまり好きではなかったんだ。

だからといって、私は男性ではなく、女性。

だけど、女性に期待されるような「役割」を担うことが苦痛で、「女性」と認識されたくなかったのだ。

 

私は学生時代、男性の友人が多かった。だけど、その友人の何人かは私を「女性」だと認識していた。だからそこでの齟齬から起こるトラブルをいくつか経験した。

 

私は友人にとって「女性」であったことに、たくさんショックを受けた。

でもそれはすべて水に流した。大したことではないと思うことに決めたから。

 

オトナになり、結婚する人が増える中で、結婚すると女性しか担えない仕事というのがある。出産だ。

私はそれにずっと気持ちが進まなかったのは、たぶんこの延長なのだ。

妊婦であること、母であることは「女性であること」を強調することになる。

 

それが、ハンディと感じずに済むような世界になると、いいなぁ。