日々の覚え書き~観劇、本、その他彩りのあるもの~

アラサー女の生きる糧。生きてるって楽しい!と思えた物事の個人的な記録。

スリル・ミー 2021年4月

東京芸術劇場シアターウエス

池袋にある劇場。初めて行きました。小~中規模という感じでしょうか。いくつかの箱の集合体、という感じ。

 

キャパは300人に満たないくらいの規模。

私はちょうど前後も左右もおおむね真ん中くらいのお席でした。

 

初めてのスリルミー。

SNSなどで熱狂的なファンがいるのは知っていたのですが、どんな話なのか?

うっすらしか知らず、幸運にもチケットが当選したため、観てきました。

 

 

以下、ネタバレありです

 

私が観たのは初演ペア  新納×田代ペア。

 

話のあらすじは、1924年アメリカで実際に起こった少年誘拐殺人事件をもとに描かれている。

18歳と19歳の、優秀で裕福な少年たちが、「自分たちは超人である」という思想に駆られて「完全犯罪を犯す」。おそらく、その2人がゲイカップルであることも手伝って、センセーショナルな事件であったようだ。

 

 

照明が暗くなり、ピンスポットで田代さん演じる「私」の陳述から物語が始まる。

 「現在」の「私」に対して、「事件の真実は何だったのか」と問うシーンから始まり、当時の回想が始まる。

 

「彼」は、典型的な「選民思想」かつ「拗らせ系」の青年。ニーチェに陶酔し、「私」が「彼」を強く求めていることを知っていて、あえて距離をとったり、急に姿を消したりして反応を楽しんでいる。

 

再会のシーンが始まる。

田代さんは、マリーアントワネットでも、エリザベートでも、いつも熱烈な片思いをしている。(マリーアントワネットは両想いだが叶わぬ恋、ということで同じ括り)

それがまた、ワンコのような従順さが似合うのである。

 

久しぶりの再会、斜に構える「彼」に対して、しっぽを振って盛大に出迎える「私」。

「私」は、以降もだがずっと、「抱きしめてほしい」「触れてほしい」と、かなりストレートに「彼」に要望(欲望?)をぶつけている。

 

ここのキスシーン、やたらとエロい新納さん。さすが、ベテランだけあります・・。

一度軽くキスしたあと、「私」に対して口を「あ」って開けて見せるんです、「口開けろ」って・・・私はここで「ひやー!!!」って声出そうになりました(笑)

 

 

とにかく自分が超人であることを周囲に示したい「彼」は、火をつけたり、物を盗んだり、「スリル」を求め続けるわけです。

「私」にも共謀を求め、都度「私」の要求にも応じる。互いに互いを縛りあい、「共犯」として時を重ねていく。

 

「彼」が求める「スリル」は、要はジェットコースターみたいな、非日常で心臓が高鳴るようなスリル。

「私」が求める「スリル」は、俗語としてあるようなのですが、性的な意味での「スリル」。

 

そして初めての殺人、からまた物語が大きく展開していくわけです。。

 

「息もつけない」とはこういうことか、と身をもって感じたし、

クライマックスの「私」の「九十九年」の歌唱に

 

「ふぁーーーーーーー!!!!!まじかーーーーーー!!!」

 

 

と心の中で叫びました。どきどきどきどき。

 

田代さんの「私」は、強火ワンコ系で、ちょっと「女性的」「ストーカー気質」が見える「私」でした。

 

今回は3パターンのキャストで上演されていて、別ペアで成河さんが演じられているのですが、成河さんといえば、私は「エリザベート」のルキーニとか、「髑髏城の七人」の天魔王とか、ちょっと悪いかつクレイジーなお役のイメージが強く、「私」より「彼」のイメージなんです。

 

今回はそちらのペアのチケットには恵まれなかったので、いつか、観てみたいなと思います。

演者さんによっても、空気感が大きく変わるであろう演目。

思わずCD購入してしまったので、また再演を楽しみに、おさらいしようと思います。

望海風斗ラストデイを観た(配信)

舞台は生き物です。

 

いや、

私は生き物。舞台は生もの。(by真彩希帆)

 

舞台は生ものであり、生き物のように新陳代謝していくもの。そんなふうに感じた観劇体験でした。

 

宝塚にハマった(まだハマりかけ?)のは最近な私。

望海風斗さんは映像でしか見たことがなく、観たいと思っていた矢先のコロナ禍。

ワンスアポンアタイム インアメリカ、半分以上が公演中止に。行きたかったよ。

 

今回、退団公演である「fff!」と「シルクロード」の二本立て、大千秋楽の配信を観ました。そこで渦巻く感情を書き記してみようと思います。

 

宝塚は、演劇のみで1幕2幕やる場合と、演劇+ショーの2部構成でやる場合があるようです。今回は、1幕はベートーヴェンを主役にしたミュージカル、2幕はシルクロードを舞台にしたショー。

 

私は、1幕のfff!という演目がとても好きでした。

ベートーヴェンは、聴覚を失い、恋人に振られ、初恋の人も失い、絶望のなかでなぜ、最後に交響曲第9番、歓喜の歌を書いたのか。

 

ベートーヴェン役である望海風斗さん。私がこの方に恋におちたきっかけは、知人からお借りしたDVD「ドン・ジュアン」でした。

運命に振り回され、孤独になり、それでもまっすぐ立ち向かう強い意思と歌声。

 

ベートーヴェンも、まさにそんなお役でした。

望海さんご自身のことはあまり存じ上げませんが、ファンの方のSNSなんかを見る限り、才能に甘んじず、鍛錬を続けてこられた方なんだろうと思います。

 

絶望の底で、打ちひしがれながら歌うソロ曲は、本当に本当に歌声を浴びるような感覚になりました。

こんなパワーを持っている演者さん、なかなかいないと思います。

 

いまのこのコロナ禍というなかで、皆が絶望や不安を感じ、エンタメ界はとくに「不要不急」だとか、あれこれ批判の的になっていた時期がありました。(特にワンスの楽日が確か有観客にするとかで揉めていたような)

きっと、組を率いるトップさんたちの風当たりや、重圧なんかは今までにない物だったんだろうと思います。

 

それを経ての、fff!。人生は不幸、絶望。それと戦うか、諦めて死を待つか。

否、

ベートーヴェンは、それを、運命を受け入れて、出口を、風穴を開けた。

 

ラストの、ピアノに向かうトップ2人を観て、なんでもないシーンのはずなのに涙が。

最後、出演者に囲まれて笑顔で歓喜を歌う望海さんはとても幸せそうでした。

 

はぁぁぁ。尊い

 

そして、2幕、そこからのサヨナラショー、退団者ご挨拶と続きました。

 

初めてのサヨナラショー、いろんな演目の名曲・名シーンが登場。

 

私は雪組の、望海さんと彩風咲奈さんのお役の上での関係性がとても好きでした。

ほかの組と比べるほど網羅しているわけではないですが、二番手さんは敵対する役だったり、追い詰める役だったり、トップカップル ←二番手さん という図式が多いような印象です。

でも咲奈さんは、望海さんと心の深いところでつながっている、同志のような。信頼関係の上にいることが多い印象があります。 

 

孤独に悶える望海さんと、それを横で支える咲奈さん。

咲奈さんの安定感。ホッとするんですよね~。次のトップさん、頑張ってほしいです。

 

サヨナラショーでも、特にKeyとなっていたのがファントムだったようで。

 

ファントムは、オペラ座の怪人の別バージョンというか。クリスティーヌを見初め、育てる怪人、という立場は同じですが、物語の肝が有名なオペラ座の怪人とはちょっと違います。

 

なぜファントムがKeyかというと。望海さんファントムが、真彩さんクリスティーヌを、リアルに育て上げたから、のようです。

望海さんと比して年齢も経験も若い真彩さんは、トップ娘役就任後、風当たりの強い時期もあったようなのです。

 

望海さんが退団挨拶で仰っていた、「蛹から蝶に育った」というのは「ワンスアポンアタイム~」の劇中の台詞にあるようなのですが、まさに。

望海さんに食らいついていこうと自身を磨き続けた真彩さん。リアルクリスティーヌなんですね~。

 

挨拶の最後の最後、真彩さんが望海さんに「大好きです」と恥ずかしそうに告げ、望海さんが「私も大好きです」と返した場面。

 

あんなにずっと近くにいて、それでもあんなに恥ずかしそうに、でも素直に「大好き」といえる真彩さん。

そして、それに真摯に返す望海さん。

 

ビジネス仲良しではなく、本気でお互いを尊敬しあっていることがわかる一幕でした。

 

ずっと近くにいたら、いやなところとかも見えそうなのに。

計り知れない努力と苦労と我慢があるであろうに。

ステージが大好きだと、組のメンバーが大好きだと、噓のない言葉と表情で告げていた皆様。

そういう方々に夢をみさせてもらって、元気をもらっています。

 

本当にありがとうございます。

 

実力十分なトップお二人は、大海に放たれてこれからもご活躍の場を広げていくことと思います。

 

自分の好きな役者さんたちと、共演してくれる日を楽しみにしています!!

ファンクラブできたら入ろうかな^^

ミュージカル『GHOST』観劇。@シアタークリエ

2018年に初演、今回再演となった、ミュージカルGHOST。

 

観てから、頭の中をいろんな映像がぐるぐる。

いろんな感情がぐるぐる。

 

パンフレットを観て、さらに考えさせられることがたくさん。

整理するつもりで、書いてみます。

 

さて、私が今回観劇したモリーのWキャストは、咲妃みゆさんのみです。したがって、モリーの感想は咲妃さんについてのみですので、悪しからず。

 

 

はじめに、じつは映画はまだ観たことがないのです。先入観なしで行きたかったので、観劇後に観ようと思っていて。

なので、ざっくりとしたイメージ(死んじゃった恋人の話か・・・)しかありませんでした。

 

死と愛がテーマなミュージカルはきっとたくさんあって、主人公やその親しい人が死ぬことがあらかじめわかっているストーリーは、個人的には好きではありません。

 

だって、悲しいし、切ないことは当たり前だから。その悲しみは、わざわざ表現してもらわなくったって、経験したことがある人はわかるから。

 

だから、正直はじめ観るまでは若干気が重かったです。観劇後、どんな種類の悲しみに襲われるのかと。

 

しかし。しかし。

確かに死んでしまうのだが、全体的にコメディタッチに進むので、1幕なんかは特に、サムの戸惑いや苛立ち、モリーの悲しみはもちろん主軸にはなるものの、冒頭のカールとの3人の軽やかなやりとりや(いちゃつくサム&モリーにお手上げのカールの図がとても幸せの象徴で、思わずにやけてしまった)オダ・メイ(森公美子さん)とのやりとり(一晩中耳元で歌われるあの歌・・・笑)など、フッと笑ってしまうシーンがたくさんあって、トラウマをえぐられずにいけました。

 

冒頭からのサムとモリーの関係性が本当に好きで。

サムはユーモラスで、ふざけてモリーを笑わせたりもするけど、あるところでは頑固で「言葉にしなくても態度でわかるだろう!」という、やや傲慢さがある。

モリーは、そんなサムをなだめるような、諭すような、少し「お姉さん」な表情が多かったり。どちらかというとモリーがイニシアティブをとるカップルなのかな、という印象だった。

 

でも、サムが死んで、モリーの脆さが急に表面化してきて。

モリーは、サムがいたから、自信に満ちて潔い、「強い」モリーで居られたんだと。

「ウィズ・ユー」 曲もとても良いですが、現実を受け入れなきゃいけないと頭ではわかっている、でも「帰ってくるんじゃないか」と思って期待してしまう、そして絶望する、いろんな感情が次々展開するあの曲を、歌い上げる咲妃さん、本当にすごい。

 

そして、中盤については割愛。(笑)

ストーリー展開が目まぐるしいから、眠くなる暇も、トイレ行きたいとぼんやり思う暇も無いです。(笑)

 

 

2幕の後半~ラスト。

私はここが本当に大好き。ここは何回観ても泣いてしまうような気がする。

オダ・メイははじめは、関わりたくないと何度も言っていたのに。気が付けば巻き込まれて、モリーのこともサムのことも、好きになっていたんだと思う。

オダ・メイの身体を借りたサムが、モリーと触れ合い、抱き合い、

 

ここの演出が本当に!!!まあ本当に!!!涙なしでは観られないのですよ!!!

 

セリフはほとんどないのに、二人が抱き合うだけで二人の、お互いを求める気持ちが表れていて。照明も、演出も、音楽も、なにもかも。完璧でした。

 

最後、サムは少しおどけて去っていこうとする。

でも、モリーはちゃんと、現実を、受け入れる。

 

2人の関係性が、最後まで出ていたんだなぁ。

 

この作品での浦井さんは、ただただ優しく、温かいです。語り掛ける、歌いかける声が、優しい。

先日、育三郎さんのラジオ出演時に、発声を見直していると言っていたけれども、ヘドウィグやったり、シェイクスピアやったり、本当にいろいろ目まぐるしい(笑)

 

今回、いつもよりも太い、柔らかい声だったような気はしました、確かに。

そして、咲妃さんも浦井さんも、歌詞が本当に聞き取りやすい。

本当、これは映像化してほしいなぁ、、、

再演でまたこのペアが観られるとは限らないから。

本当に本当に、お願いします。

 

 

そして、パンフレットを観ていたら。

浦井さんの「会いたい人」、亡くなってしまった先輩や友人のことが書いてあって。

友人の死、直後には「まだ整理できない」と言っていたけれど、サムを演じるにあたって、きっと彼のこともたくさん考えたんだろうな。

それで、芝居で昇華していくことが、浦井さんから彼への餞なのかもしれないな。

だから、彼は今回パンフでそのことに触れたのかもな。

なんてことを考えたら、浦井さんがあまりに孤独に思えて泣けてしまいました。

 

表現者って、本人はちゃんと幸せになるのかな。

満たされることが、怖くなったりしないのかな。

そんなこともなぜか考えてしまいました。

 

とにかくとにかく、再演があれば、必ず観たい演目ですが、

浦井さんが主演じゃなかったらどうしよう、、、なんて考えてしまいます。。

なので、お願い、時を止められるように映像をください!!!

 

 

ポーの一族 @東京公演配信

2月。東京国際フォーラムで行われているミュージカル「ポーの一族」。

 

チケットは当然ながらプレミア物で、手に入らず配信での観劇。

 

 

宝塚版も、WOWWOWで放送されていたものは観ました。

 

その美しさそのままに、男性キャストを織り交ぜたVer.での上映。

 

主演のエドガーは明日海りおさん、アランは千葉雄大さん(ミュージカル初)!

 

さて。観劇の感想ですが、

 

2幕・・・・2幕がつらい・・・・つらいよーーーーーー怖いよーーーーーー

 

 

ストーリーは、人として生まれ、養育者に捨てられ、ポーの一族に拾われ育てられたエドガーと妹のメリーベル

(メリーベル役の綺咲愛里さん、みぇ~っちゃかわいかった!でも年齢設定の謎??エドガーは少年っぽいお衣装で、10代で時が止まったままなのだが、メリーベルエドガーが不老の身になってから数年後に再会しているはずなので・・同い年くらいになるのかしら。お衣装がずっとロリータ系のフリフリなので、時間の流れわかりづらかったな)

 

ある夜、婚約の儀が行われ、そこでポーツネル男爵(小西遼生)に嫁入りしたシーラ(夢咲ねね)がバンパネラになるところを見てしまうエドガー。

 

自分はそのようにはなりたくないと抵抗(←この抵抗感がものすごく強いところがやや謎。)

一族を増やしたいポーの一族は、メリーベルを人質にしてエドガーに受け入れることを強要する(ように見えた)。

 

 

 

この物語を通してテーマとなるのが、「偏見、無知、嫌悪」なんだと思う。

 

バンパネラは、実際に人を殺めることができてしまう。が、劇中で人が死んだ?のはエドガーのはじめの「食事」のみ。

 

ポーの一族は、バラの花を使った料理を食べていたと(エドガーが幼少期にもう飽きたといっていた)。そうしたら定期的に人を「食事」としなくても生きていられた??

 

とすると、人間がずっと「あいつらは危険だ、やられる前にやらなければ!」というのは、果たして本当なのか、という問い。

 

「都市伝説」のように語られるバンパネラは、妖怪のような存在。

それにエドガーも嫌悪感を抱き、受け入れたくないと拒否続けていたのか。

 

後半では、自分がバンパネラである現実受け入れざるを得なくなり、孤独から他人を求めるようになっていく。やや偏屈な金持ち少年、アランと孤独が共鳴、そこから「人に生まれて人ではなくなった」エドガーとの時空の旅が始まる。

 

 

個人的なツボポイントは、オープニングで明日海さんがバンっ!!!!!とスポットライトを浴びて登場したときのあの神々しさ、、、思わず拍手したくなるオーラ。

 

あとは、夢咲ねねさんのシーラの、あの謎におっとりした鈍感な感じ。

小西遼生の美しさ。

 

老ハンナ涼風真世さんのあの独特な初声・・・魔女感(笑)

 

ちなみに、幕が下りている間はバラの花と蔦を背景に、タイトルがマッピングで映し出されていました。

バラの花は、「美」と「愛」の象徴なんだそう。

ほかにも色別で「純潔」「清純」「誇り」「気品」などがあります。

ちなみにブルーの薔薇は以前は「不可能」だったのですが、開発が進みブルーの薔薇が作れるようになったことから、「夢はかなう」という花言葉になったそうな。

 

あと、黒薔薇は「永遠の愛」という意味なんだそう。

 

幕の薔薇。いろんな色があったなぁと思い返しながら、きっとこれは「愛」の物語である、ということなんだろうな、と思いました。

 

ただ、蔓薔薇は「秘密」の意味合いもあるそう。

 

薔薇のミーニング、奥深い!!!

 

 

まとめ。

ビジュアルの美しさは最高。

明日海さんの歌。カリスマ性、最高。

ストーリーは、後半哀しみ強めなので、私はあまり何度も観たくない・・・・

 

以上!

ミュージカル マリーアントワネット 2021年@シアターオーブ

先日、観てきました。

マリー・アントワネット。ミュージカル。

ミヒャエル・クンツェ&シルヴェスター・リーヴァイのゴールデンタッグです(モーツアルト!やエリザベートなど)!!

 

史実を基にした、壮大なミュージカルでした。豪華絢爛。

 

まず私は、この観劇にあたりマリーアントワネットについて全く知識がない!(「パンがなければケーキを・・・云々」くらい)ため、予習をせねばと思い。

以下の書籍を読みました。

 

吉川トリコ 著 マリーアントワネットの日記 ~Rose/Blue ~

 

こちらの本は、またこれはこれで強烈な癖のある本だったのですが(褒めている)

それで得た知識をざっくりいうと

 

オーストリアからフランスに嫁いだマリーアントワネット。本人は社交的ではあるものの狡猾に立ち回ることはあまりしなかった。素直に直球勝負で顰蹙買うタイプ。

ルイ16世はとにかく真面目、優しいが王としてのカリスマ性は乏しい

・フェルセンという初恋の人がおり、生涯愛し続けた(フェルセンはプレイボーイ)

 

 

とりあえずはこんなところか。

 

さて、観劇の感想に参ります。

はじめ、フェルセンとの恋物語が舞台の中心なのかと思っていました。(フェルセンの名前が3番目に出てくるので)

 

ちがったーーーーー

 

もちろん、大事な要素ではありました。

 

でも、私なりに捉えたこの演目のテーマ、、、それは、

 

「自分で考えなさい」

 

ということでした。

 

フランスを貧しい国にした。貴族と貧民を二分化した。民衆は明日の食糧もないのに、宮殿では連日ダンスパーティー

怒れ、今こそ立ち上がれ。我々民衆の敵は、贅沢三昧、浪費家の王妃マリーアントワネットだ!!

 

マルグリットと、オルレアン公はでっち上げの新聞記事を作って世論を操作する。

マルグリットの動機の中心は「権力に対する憎しみ」、オルレアン公の動機は「野心」。目的は同じ。王と王妃の評判を落とし、失脚させるため。

 

マリーアントワネットもルイも、世界がひっくり返る、ということを知らなかった。純真で、無知だった。宮廷内の世界しか知らなったから「王に対して、そんなことをするはずない」と、考えが甘かった。

 

フェルセンは他国の戦場や革命を見ていたから、早期から忠告をしていたがその言葉は届かなかった。

 

民衆は、首をすげ替えることに夢中で、革命の本質(マルグリットとオルレアン公の思惑)が見えていなかった。ただお祭り騒ぎ。

 

その騒ぎのなかで、マルグリットは、アントワネットの見張り役として働くようになり、気付く。

王も王妃も一人の人間であることに。

憎しみの象徴としての王族にも、家族があり、愛する人がいて、理不尽さや絶望にも直面する。

 

マルグリットは、マリーに嫉妬していた部分もあったんだろう。

フランス中の視線を集め、光が集まるマリー。

対して、貧しく暗い道を生きるしかないマルグリット。

 

でも、マリーも王妃という肩書に集まる「友人」や、足の引っ張り合いの宮廷内政治にうんざりし、孤独を感じていた。

 

「お金があるけど自由がない生活と、お金がないけど自由のある生活、どっちが幸せ?」

 

マリーが劇中でマルグリットに問う場面がある。

マリーは、マルグリットのように家もない、明日の食糧もない生活を想像はできないだろう。

でも、マリーの幸せの象徴は、自由(フェルセンとの未来)だった。

どちらが幸せ、どちらが不幸、とは言えない。でも自分が選ぶなら?という、観客側への問いかけでもあると思う。

 

そのほかにも、何が真実でなにが嘘なのか。

自分が志すものは何か。

 

いろいろな分かれ道があって、それぞれがそれぞれの選択をした結果起こったフランス革命

物事の多面性。考えることはたくさんです。

 

 

今回Wキャストがたくさんだったのですが、私は花總さん×昆さん×万里生さん×上原理生さん、というキャストで観ました。

 

花總さん。

歌がすごく上手なわけではないと個人的には思ってしまうのですが、無邪気さや人から愛されるあの雰囲気。晩年の哀しみや孤独。その対比がすごい。表現が素晴らしいんだわーーーー

 

昆さん。

以前エポニーヌを一度生で観てから、もう虜です。力強さ。憎しみと悲しみ、怒り。

あんな小さい体で、大勢のアンサンブルキャストを引き連れて。「もう許さない」すごい!!鳥肌でした!!

 

万里生フェルセン

初めて生で観ましたが、キラキラした、華のある御方でした。ド直球、あなたのことを思ってます!!!!という熱きフェルセン。低めの音域より、高めの音域が甘い感じで好みでした~~

 

上原理生さん

ビジュアルがもう、、、、悪そう(笑)さしずめロックスターのような、ソロナンバーのあの猛々しさ。声量がすごい。情熱的なお役が合いそうな方でした。

 

嗚呼、願わくば芳雄フェルセンが観たかった~~~

次回再演があればまた行きたいと思う演目でした!!!!

 

ひとりたび@熱海  起雲閣に興奮した件について

先日、ひとりたびを久しぶりにしてまいりました。

 

いろいろ煮詰まると、一人になりたくなります。

 

目の前になにもタスクがない状態で、必要に迫られることなく、自分のすきなことだけをすればいい。

 

ただ目の前には広い空、広い海。。。

 

 

今回は、海も温泉も空もよかったのですが、一人興奮した

 

「起雲閣」という施設について。書きます。

 

ここは、朝ドラ「花子とアン」のロケ地だったそう。(観てない)

 

もともと、内田信也さんという方が1919年に建て⇒所有者が変わり敷地・建物が広がり、旅館として運営されていたのが1947年から1999年まで。

 

その後、熱海市が所有者となり、文化財として残されている。

 

 

 

という建物。

 

なににそんなに興奮したのかというと、

「昭和モダン」な洋館。

 

とくに、「金剛」というお室。

 

美しいステンドグラス・・・

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これはそう、お暖炉の横にあるんです、ちなみにこの写真手前に応接セットがあります

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このお暖炉の上の木の淵部分の白いキラキラ、、、

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アリスかよー!!!細かい!!素敵すぎる!

 

と、一人無言で興奮しておりましたとさ。

 

ちなみにこの洋館についているお風呂は「ローマ風浴室」というお名前で、

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かけ湯のスペースなのかしら?

蓮の花のような。 いちいち可愛くてテンション上がりあがり・・・

 

また忘れたころに行ってみようと心に誓ったのでした。

 

 

ちなみに、

熱海には文豪の方々もよく泊まりに来られていたようで、太宰治志賀直哉谷崎潤一郎などのパネル展示もありました。

 

そこにふと見つけてしまった、坪内逍遥先生・・

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帝劇で初演の「ハムレット」は、坪内先生の訳だったそうな。

これは文語だろうから読める気がしないが・・・

パラパラと一節くらいなら、いつか、機会があったら・・読んで・・みようか・・

 

 

そんなこんな、心躍る、起雲閣でした。

入館料610円、自分的にはだいぶ価値あった!!

リチャード2世を、観劇。

さてさて、浦井健治さん推しである当方。

 

現在、新国立劇場で行われている、リチャード2世、観劇してまいりました。

 

まず、ざっくりとおさらい。

シェイクスピアの、王位継承に関するゴタゴタシリーズは複数あります。

 

歴史より、古い順に並べると、

リチャード二世⇒ヘンリー四世⇒ヘンリー五世⇒ヘンリー六世⇒リチャード三世

 

です。

数字と、リチャード、ヘンリーが混ざるので私も混乱しました。

 

本のほうは、リチャード二世、三世、ヘンリー四世 と読了しましたのであと2冊で制覇・・・

 

とりあえず、簡単に説明すると、スタートはエドワード三世という王様。

その長男の息子=リチャード二世。

その従弟、エドワード三世の次男の息子=ボリングブルックとの王位争い

(というか、リチャード二世は比較的平和な攘夷)

 

ここから、ボリングブルック=ヘンリー四世、その息子、ハル王子の物語(=ヘンリー五世)、六世と続く。

 

その後のリチャード三世とは、、エドワード三世の、三男のひ孫にあたる人物。このひとは極悪人と呼ばれ、人を陰謀で殺しまくった上、王位に上るが3年にも満たない天下で死んじゃう、あっけないちょっと惨めな人物。

 

それぞれ、テーマやキャラクターの魅力というか強さが違い、面白いシェイクスピア戯曲。

 

はじまりの物語、リチャード二世は、なんというか、自身への問いかけが多い、内面に深く問い詰めていく台詞が多いんだと思う。

 

リチャード二世は、生まれながらの王として自身の存在を疑ったことがなかった。王=神の代理であり、皆、疑わず従うことが当然だと、そう思っていたように見える。

 

しかし、政治の才能もなく、頼った貴族たちも金目当ての者ばかり。財政はひっ迫、フランスとの戦争は終わらない。そうやって財力もなく兵力も衰え、その根本的な解決策を講じずにその場しのぎの対応をしていた。

それを、良しとしない貴族やらが、ボリングブルックを担ぎあげ。反乱、というよりも多勢で脅しにかかったわけだ。

 

しかし、この間、ボリングブルックは王位を譲れ、とは一言も言っていない。

リチャード二世が、その貴族たちの寝返りや、ボリングブルックの勢いに気圧されて、自分の価値を問い直してしまう。そこから徐々に「自分は王なのか」「彼のほうが王にふさわしいのではないか」「みんな私のことを必要としていないのではないか」、弱気になり、”人間”と”王(絶対的存在)”を、精神的に行ったり来たりする。

 

ヘンリー四世では、ホットスパーが感情的、というか台風の目、となって反乱軍を率いるが、この話ではボリングブルックが、若さと正論、真摯な態度で、要はカリスマ性を発揮している。

 

この劇を通して、ボリングブルックは本当に理解しにくい人物だと思う。

反乱軍を率いたのは、自分が相続するはずだった父の財産を正当に相続する権利を主張するためで、彼が感情的になる部分というのは国外追放を嘆くシーンと、叔父ヨーク公に、リチャードの行為と自分の行為の、正当性を問うシーン。

王位については、ボリングブルック自身が受け継ぎたい素振りをみせるところはない。

 

ただ、ヨーク公が”中立”という名で事実上降伏した際に、取り巻き貴族の処刑をしたシーン。あそこらへんから、実は「王」の片鱗が見え始めている。

あの時点で、ボリングブルックは自身の勝利を確信していたが、その後リチャードに接見した際、礼儀を尽くしてはいた。

あのときリチャードが、従来通りの自信と、強い心をもって対峙できていれば、攘夷の話はなかったかもしれない。

 

つまり、それまでの心理的な圧迫を、遠隔的に行っていたのあか、ボリングブルック。

陰謀とみられない、むしろまっすぐな印象を抱かせて、いる、のに。もしかして、策ではなく、天然なのか??これこそ、神の御示しの筋書きなのか???

 

でも、「ヘンリー四世」のなかでは、ヘンリー四世(=ボリングブルック)の、臨終のシーンで。自身が王位を奪ってから、結局同じように奪われる可能性があるものに恐怖を抱き、それなりに罪の意識、良心の呵責というのはあったように思う。

 

 

シェイクスピア劇は、だれを信用するか。それによって歴史が変わるし、結果が全く違っていくように思う。

リチャード二世の登場人物は、比較的優柔不断な人物が多いのかな。例えば、オーマール公は、リチャード・ボリングブルックの従弟にあたる人物だが、リチャードが、倫理に反する言動をすれば眉を顰める、かと思えば、ボリングブルックの反乱後も最後までリチャードに付き添うのも彼である。しかし、グロスター公暗殺の嫌疑をかけられるのも彼。

結局彼は、だれに仕えているのか。どんな信念をもって仕えているのか。それがはっきりしない人物であった。

 

 

歴史劇の最終章、はじまりの物語。

岡本健二さんはじめ、役者さんの個々の熱量と、技術が光り、引き込まれる作品でありました。